上りエレベーターに逆らって歩いてみて?

●模試。寝不足。ハロショも久々へ巡礼。店員さんはバイトでしょうか?毎回行くたびに違う人なんですが・・・。小学生くらいの娘さんを連れた親子連れの方がいて、お母さんもなかなか熱心な方で。娘と母で同じ趣味でいろんな話が出来るのいいでしょうね。三木楽器へ行ってKORGのCD付きカタログをゲット。この不況時にCDが付いてるというのもスゴイですね。販促にかなりの予算がついているのでしょうか。アメリカ村へ行ったんですが、ここはどうも馴染めません。昔から自分の居場所ではなかったですね。どちらかというと日本橋の方がなじみがあって落ち着きます、と言ったら笑われるでしょうか(笑)。

モンテーニュは、その『エッセー』の第1巻第24章で、次のようなことをいっている。「有能な読者は、他人の書いたものの中に、作者がこれに記しとどめ、かつこれに具わっていると思ったものとは別個の醍醐味をしばしば見出して、これに遥かに豊かな意義と相貌とを与えるものだ」と。つまり眼光紙背に徹し作者の面目を隈なく理解するのみならず、それ以外のことをわかるという意味なのだろう。つまり、作者が現像液に予定しなかったような作用を有能な読者はその現像液をして行わしめるという意味であろう。もちろんこれは、1冊の本を全く見当違いをして読んで作者の意図を故意だと思われるくらい誤解するとか、倫理の書籍の中から盗賊の自己防衛の具を読み取るとかいうことが有能だと言っているのではないことは明らかである。1冊の書籍を読むにあたっても、その人の当面の問題のみならず、心中に潜んでいたあらゆる間道が濃淡さまざまあろうが一様に浮かび上がってきて、みな大鳥籠内の小鳥の群のように囀り出すというような心境ではないかと思う。そして、現在の新聞紙のように模範的な希薄さを持った現像液でも、有能な読者は各自の強力剤を用意してなかなか深い読み方も出来るというわけになる。こういう具眼の読者になることはなかなか容易な業ではなく、畢竟するに、我々がなるべく多くの問題に常に生き生きと用意しておけるようになることが必要となるのであり、そのためには、「ついに己は本を読み能わぬのだ」などと泣き言は吐かずに、読めば読むほど新しくなる気味の悪い書物をいよいよ愛しますます読まねばならぬものなのだろう。 −渡辺一夫『書籍について』

△今日も大好きなごまりかの為に筋トレ+ストレッチは欠かさない。